讃岐における真宗の歴史は、今日まで大きな特徴を持って歩んできている。真宗は今日、東西本願寺の大教団をはじめ十派を有するが、讃岐においては、古来から今日に至るまで興正寺門系の寺院がその大半を占めている。

その歴史を訪ねるに、足利三代将軍義満公の治世、應安元年(1368)に、佛光寺了源上人が四国に浄泉坊・秀善坊の両僧を念仏弘通のために遣わし讃州三木郡氷上村に浄泉坊が常光寺を、阿州美馬郡香里村に秀善坊が安楽寺を開基され教線を拡張し、その後、建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依していった。

その後百余年を経て、本願寺教団では中興の祖といわれる蓮如上人が輩出、精力的に伝道活動を展開し、宗祖親鸞聖人の真意を説き、雪崩現象的に全国の民衆が蓮如上人のもとへ帰依することとなった。

当寺、仏光寺教団にあっては経豪上人が継職していたのではあるが、経豪上人は蓮如上人の教えに共鳴して、文明13年(1481)弟経誉にその職を譲って仏光寺教団の寺院、門信徒の大半を引き連れて蓮如上人の下へ帰参し、蓮如上人の「蓮」の一字をもらい受けて蓮教上人と名乗り、仏光寺の旧名「興正寺」を寺号としたのである。

ここに仏光寺教団は興正寺教団と二教団に分かれることとなるのであるが、讃岐における常光寺、安養寺、阿波安楽寺と、その末寺の讃岐寺院なども興正寺蓮教上人と行動を共にすることとなるのである。(略)

江戸時代における興正寺門下の寺院数は、延享3年(1746)に所司代へ提出した「祖門旧事記」の記録控えによると2117ヶ寺とあり、西本願寺全末寺数は8359ヶ寺とあるから、興正寺門末系が、そのうちの4分の1を占めていたことになる。讃岐においてはもちろんのこと77ヶ寺とあるから、大半は興正寺門末であったことが窺い知られる。(真宗公論第36号「讃岐の真宗」鈴木勝彦より抜粋)

その後、明治9年に興正寺が西本願寺より別派独立したが、その時多数の興正寺末寺院が西本願寺に移り、末寺数は激減してしまった。香川においてもその影響をうけたが、戦後、新寺院の建立などで増加し、県下の真宗各派の中で最大の寺院数となっている。