令和元年 高松興正寺別院 夏まいり

7月11日(木)午前10時より、高松興正寺別院の夏まいりが勤修されました。
この日は小雨が降ったり止んだりの梅雨空で、少し蒸し暑い天候でしたが、50人近くの方がお参りくださいました。夏まいりは、朝座のみの法要になります。

午前10時より、『正信偈』(中拍子)をお参りさんと声を合わせてお勤めしました。
この日は11名の内陣出勤があり、副輪番の松尾修淨氏が句頭を出しました。
お参りさんに向けて『正信偈』の本の貸し出しも行われましたが、たくさんの方が自分の本を持参され、声を出して熱心にお勤めをされている姿がありました。

お勤めの後は、柴田輪番から挨拶があり、その後、休憩に入りました。
堂内は冷房が入れられており、休憩時間には冷たい飲み物やお菓子が振る舞われ、お参りさんの体調にも配慮されていました。

休憩の後は、本山布教使 まんのう町 善性寺 千葉憲文先生による法話がありました。

千葉先生は、「無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ」という親鸞聖人のご和讃を紹介され、「私の思いを中心にするのではなく、私の思いを超えたお念仏を中心にして生きていきましょう」というお話をしてくださいました。

私たちは、日々愚痴ばかりをこぼしていますが、先生は「私たちは愚痴を言うために生まれてきたのですか?」と問いかけられ、「愚痴ばかりをこぼしていると大事なものを見失ってしまいます」と仰います。続けて、「それでは、どのようなときに愚痴がこぼれるのでしょうか?」と問いかけられ、「それは、自分の思い通りにならないときではないでしょうか」と教えてくださいました。

一つのエピソードとして、先生はある新聞に掲載された11歳の女の子の投書を紹介してくださいました。
この11歳の女の子には妹と弟がいるそうですが、投書のタイトルは『妹や弟、おらんでいいのに』というものでした。
周りの一人っ子のお友達からは、「姉弟おったら楽しいやん」と言われたり、お母さんからは、「大人になったら助け合えるし、一人でも寂しくないから、姉弟おったらええねんで」と言われるそうですが、11歳の女の子は「そうは思えない」と言うのです。
なぜ、そうは思えないのでしょうか。
実は、11歳の女の子は以前、お父さんからスマホを貸してもらっていたそうですが、お姉ちゃんだけがスマホをしていると、妹や弟が「ずるい!」と言って喧嘩になってしまうため、お父さんがスマホを貸してくれなくなったという出来事が背景にあるそうです。

このエピソードからも分かるように、人間は年齢を問わず、生まれたときから愚痴をこぼすという根性が染みついているのです。

しかし、考えてみますと、私たちの人生は思い通りにならないことのほうが多いのではないでしょうか。
その代表として、仏教では、生・老・病・死が説かれているのです。

したがって、先生は「自分の人生をつまらないものにしないためにも、お念仏の教えが大事なのです」と仰るのです。

それは、「私の思いを中心にするのではなく、お念仏を中心に生きていく」ということです。

私たちは愚痴をこぼすことが染みついていますから、気がつけば、愚痴の中に沈んでしまう生き方になってしまいます。しかし、お念仏を申すことで、今一度、私の思いを超えた仏さまの世界を中心に据えることができるのでありましょう。

最後に、先生は「思い通りにならない中にも、大事なことや喜びは必ずあります。そのことにも気づかせていただきましょう」と仰って、思い通りになるだけが人生ではなく、思い通りにならないことの中にも、必ず喜びがあることを教えてくださいました。

とても分かりやすい語り口調で、お参りさんも千葉先生のお話に深く頷かれている様子でした。

法話の後は、全員で『恩徳讃』を唱和して法要を終えました。
お参りさんには、帰りに別院からパンとお茶が配られました。

内陣の準備と片付けに式務から2人、外陣・参拝席の準備から当日のお手伝い、そして片付けまで、教化参拝から8人のご協力を賜りました。この他、たくさんの方々のご協力を賜り、夏まいりを無事に勤めることができました。
この法要に携わったすべての方に対して、厚く御礼を申し上げます。