令和7年 高松興正寺別院 宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年 慶讃法要
5月11日(日)朝座10時より高松興正寺別院 春季永代経、昼座1時より高松興正寺別院 宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年 慶讃法要が厳修されました。
今回の慶讃法要の目玉として、丸亀町商店街 岩佐佛喜堂2階で仮殿勤行をした後、庭儀として別院までの約300mを法中とお稚児さんが行道しました。
この日は夕方から雨の予報になっていましたが、なんとか最後までもってくれました。
朝座25人、昼座54人が参拝してくださいました。
朝座の春季永代経は自由出勤のみの受付となり、4名の出勤がありました。
輪番の松尾修浄氏が登壇し、『無量寿経』(四十八願・三誓偈)を正宗分としたお勤めが行われました。
休憩を挟んで、本山布教使 奈良県宇陀市 龍泉寺の吉岡妙由先生の法話となりました。
先生は、「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ」という、本願の第三願「悉皆金色の願」を讃題に掲げられ、私たちの勘違いと、それを正そうとはたらき続ける阿弥陀さまの願いについて教えてくださいました。
その中で、相田みつをさんの『セトモノ』という詩を紹介され、「やわらかいこころをもちましょう」という一文と、「そういうわたしはいつもセトモノ」と、相田さんが自身の心を痛まれた一文を大切にされました。
また、聖徳太子の「和の精神」を取り上げられ、「自分は正しい、相手は間違っている」と決めつける私たちの価値観を問題とされました。
そして、「あばたもえくぼ」ということわざを紹介され、自分の赤ちゃんのオムツ交換は楽しみですが、おじいさんのオムツ交換を不快に感じているお母さんの話を紹介してくださいました。
先生はこのような私たちの考えを「常・楽・我・浄」と押さえられ、これらすべてを勘違いと指摘されました。
最後に先生は、「『南無阿弥陀仏』が私と仏さま、私とご先祖さまとの唯一の接点です」と仰り、「私の口に出たお念仏は、口に出るまでに、仏さまの願い、ご先祖さまの願いが必ずあります」と教えてくださいました。
昼座は、午後1時より丸亀町商店街 岩佐佛喜堂2階にて仮殿勤行が行われました。輪番の松尾修浄氏が導師を務め、庭儀に参加する法中16名で『無量寿経』(成就文)をお勤めしました。
その後は庭儀となります。維那を先頭に、仏旗2名、楽人6名、維那補と続き、天人の衣装に着飾ったお稚児さんと保護者が真ん中に入り、維那補、出勤者4名、維那、会行事、輪番と続く、100名近い隊列となりました。
沿道では、祖父母や通行者がカメラを向け、美しい雅楽の音色とともに、華やかな行道となりました。
別院到着後、お稚児さんと保護者は、2班に分かれて集合写真を撮り、各々で家族写真を撮ったり、祖父母と談笑しながら待ち時間を過ごしました。
同時進行で、午後1時より本堂で慶讃法要の法話が行われました。
法話は朝座に引き続いて、吉岡妙由先生です。
先生は「能く一切の諸の世間の生老病死と衆の苦悩を救わん」という『無量寿如来会』(『無量寿経』の異訳)のご文を讃題に掲げられ、お念仏の教えについて、分かりやすくお話くださいました。
まず今回の慶讃法要には、「親鸞聖人御誕生850年」と「立教開宗800年」という意味があることを押さえられました。
立教開宗というのは、浄土真宗が開かれた年ということですが、親鸞聖人ご自身は「生涯、法然上人の弟子」という認識であられたことを確認した上で、後の人たちが親鸞聖人の著書である『教行信証』が執筆された年を立教開宗の年と制定したことを教えてくださいました。
また、「慶讃」の字にも注目され、「慶」は「すでに得ているもの、お念仏の教えに対してのよろこび」、「讃」は「受け取った教えを次の世代に伝えていく責任」と教えてくださいました。
そして、讃題に掲げられた「能く一切の諸の世間の生老病死の衆の苦悩を救わん」という言葉は、生老病死で悩み苦しむ人を救うのではなく、「苦しみの根本を解決すること」だと教えてくださいました。
先生はコロナ禍で外出ができないときに、オンラインの勉強会に参加されて、新潟県の80代の女性と知り合いになられたそうです。
とても熱心にご聴聞されている方で、その方からいただいたお手紙の一節を紹介してくださいました。
「6年前にすい臓がんという病をいただきました。この度、再発という試練を賜っています」
「医師から余命1年をいただいております。与えられた命を一生懸命、生きたいと思っています」
「この世での仕事を終えたら、『南無阿弥陀仏』となって生き続けます。いつでも名前を呼んでください」
という、いのちの本質に迫る内容だったそうです。
先生は、「亡くなったら、法名は刻みますが、ずっと言い続けていく名前は『南無阿弥陀仏』です」と指摘され、みんな同じ名前となり、同じ名前の仏さまを呼んでいくことを教えてくださいました。
最後に、この女性を「本当にやわらかい生き方をされた方です」と回想され、「竹のように、大きな衝撃を受けても、しなって元通りになる復元力をお念仏によっていただくのです」と仰り、教えに出遇えたよろこびを伝えていく責任が慶讃法要の意義です」と締めくくられました。
午後2時からは、ご門主様ご親修のもと、 慶讃法要の勤行が厳修されました。
来賓として、郡家興正寺別院輪番 徳永浩然氏 、責任役員 川田信五氏、田村信哉氏、宗会議員 橘 正亮氏、千葉好哲氏、梅園良哲氏、谷本俊彦氏、参務 大熊慎司氏、教務所長 髙松和範氏の出勤を賜り、各組から代表出勤9名、そして、外陣に知堂9名が出勤しました。
内陣・余間出勤者は、七条袈裟を着用する、とても賑々しいお勤めとなりました。
「仏徳頌」では、内陣の行道が行われ、タイミングを合わせて、外で待機していたお稚児さんと保護者も本堂中央から入堂し、後堂を一匝しました。お稚児さんの行道では、2階の回廊から花吹雪と華葩が降り注ぐ演出が行われました。
続く、「深法咒」では、内陣衆も散華を行いました。
勤行後には、ご門主様から「おことば」を賜りました。
ご門主様からは、昭和20年の高松空襲で焼失した高松興正寺別院の再建が容易ではなかった中、「親鸞聖人のお念仏のみ教えを守りたい」という多くの先輩方の熱意により、昭和33年に現在の本堂が再建されたことを回想されるお言葉がありました。
そして、子や孫たち、まだお念仏に出遇われていない方に、お念仏のみ教えが弘まっていくよう、讃岐の地にお念仏の声が響きわたるようにと願われました。
最後に輪番の松尾修浄氏より挨拶があり、「恩徳讃」を唱和して法要を締めくくりました。
今回の法要には、会行事1名、維那2名、維那補2名、知堂10名、堂掌1名、教化参拝5名、稚児係6名の総勢27名が役職に就かれ、法要の準備から片付けまでご協力を賜りました。この他、各組代表出勤、自由出勤の皆様、ご門主・講師接待に尽力された坊守会の皆様、ご参拝くださった仏教婦人会の皆様、お稚児さんに参加された皆様、そして、快く場所を提供してくださった岩佐佛喜堂様など、たくさんの方のご協力を賜り、無事に慶讃法要を厳修することができました。
この法要に携わったすべての方に、厚く御礼を申し上げます。