令和3年9月21日 第14回教学研修会
令和3年9月21日午後2時より、教学研修会~『歎異抄』に学ぶ~が開催されました。
この『歎異抄』の講義は、初回が平成29年9月に第1回が高松興正寺別院で開催され、今回で14回目となります。コロナ禍の開催でしたので、前回と同様にオンラインで開催されました。
御講師は、龍谷大学教授玉木興慈先生です。先生よりご用意頂きましたレジメ「『歎異抄』に学ぶ14」を参照しながらご講義を頂きました。
まず初めに6月に開催された第13回目の『歎異抄』第5条について補足として往相回向と還相回向について『教行信証』の冒頭(つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。)、『正信偈』の「往還回向由他力」そして『正像末和讃』の「往還回向の大慈より 還相回向の大慈をう 如来の回向なかりせば 浄土の菩薩はいかがせん」のお話を頂きました。その中で、仏教学者の中村元先生が慈悲について「慈も悲もいずれも心の根源的な所では同じ心理の働きがある。」とご解説され、龍樹菩薩が『大智度論』で言われる慈悲「慈…一切の衆生に楽を与える(与楽)、悲…一切の衆生のために苦を抜く(抜苦)」と曇鸞大師が『論註』で言われる慈悲「慈…全ての衆生の苦を抜く(抜苦)、悲…楽を与える(与楽)」とでは、考え方が違うからと言ってこだわる必要はない。両方の心を合わせて慈悲、というふうに受け止めるとご解説されたことをお話しくださいました。
補足に引き続き『歎異抄』第6条に移り玉木先生は、親鸞聖人の仰った言葉が唯円房の非常に印象深い言葉として耳の底に残っていた。それがこの第6条の本文としては残されているんだということです、とお話しくださいました。また人間は、自分を偉いと思われたい。人間は、誰かから「師」と仰がれたい。しかし、浄土真宗の御法義は、自分を確かな人間と見るのではなく、確かな弥陀の方を知るところに、要がある。とご講義頂き、以下次回の講義に続く予定です。